マルティン・ルターによる一日一章より(2/19)

2月19日 

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」。(マタイ17:5)

 聖なる殉教者たちに対して、天使の顕現はなかった。彼らはみことばによってのみ強められて、キリストの名のために死へ向かったのである。なぜ私たちもまた、その同じみことばをしっかりつかんで、それによって満足しないのであろう。私たちは、はっきりとした、すばらしいしるしを十分に持っていることは確かである。すなわち、洗礼や主の食卓、鍵の権能、説教の職務……。それらはあらゆる天使のあらゆる顕現にはるかに勝っている。これに比べれば、アブラハムは、ほんの小さなひとしずく、ひとかけらを受けただけなのである。

 それゆえに、私は天使を気にかけない、なぜなら、神の約束は、今やキリストにおいて豊かに成就され、啓示されたからである。キリストはみことばを私に委ねてくださったので、私はそれによって育まれ強められる。だから、私は、彼が移り気で変わりやすく、今はこれ、すぐにあれといった具合にいろいろな教えを持ち込んで来ようとしているなどと心配しはしない。私たちには神のことば、主の食卓、洗礼、十戒、結婚、秩序あるこの世の権威、さらに家庭管理などが与えられている。それに十分に満足すべきであって、そこでこの世の終わりの日まで、自分たちを鍛錬すべきである。(『慰めと励ましの言葉ーマルティン・ルターによる一日一章』)

天使が現れてくれたらと思うことがあるかもしれない。

この人、天使なんじゃないか?という出会いに助けられることもある。

でも私が助けを呼ぶ前から、神は私を受け止め、語り、働きかけてくださる。

その出来事こそが、みことばという愛。(N)

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