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· ルター,宗教改革500年,聖書

マルティン・ルターによる一日一章(8/13)

「その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。」 (ヨハネ4:39,41)

 ああ、私やその他すべての教師の解釈が姿を消して、各々のキリスト者が、聖書そのもの、すなわち純粋な神のことばを自分自身で受け入れることを神が望まれますように。

 神のことばがあらゆる人の言葉とどんなに測り知れないほど異なっているか、また、神のことばのいくらかでも十分に理解し、自分の言葉のすべてを用いてでもそれを明らかにすることは誰にも決してできないことを、あなたは、私のこの講話からきっと知るであろう。それは無限のことばであって、詩編83編で、「わたしは、神ご自身がわたしに語られるのを聞く」と言っているように、静かな霊によってとらえられ顧みられる。それはまた、このように静かに深く熟慮する霊のほかには、誰にも理解されることがない。註解や講義なしにこちらに来ることのできる人々には、私やその他の人々の註解はみな、まったく必要でなく、邪魔になるだけである。

 それゆえに、愛するキリスト者よ、こちらに、この中に入りなさい。そして、私とすべての教師たちの解釈を私たちの正しい建造物の足場にしよう。そうすれば、私たちは純粋な神のことばそのものを自分で理解でき、味わい、そこにとどまることができる。なぜなら、神はそこに、シオンにのみ住まれるからである。アーメン。(『慰めと励ましの言葉ーマルティン・ルターによる一日一章』)

「ことばのうちがわへはいりこみたい」(八木重吉)。神の言葉が命を産んだ。神の言葉にしがみつき、泣き、笑い、生かされる。(N)