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· ルター,宗教改革500年

マルティン・ルターによる1日1章(3/20)

「わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。」(ガラテヤの信徒への手紙2:19)

 聖書は多くの「好ましい」呼び方(「私たちの律法」「私たちの罪」「私たちの死」など)で、ご自身は、自由、永遠の命、救い以外の何者でもなかった主キリストを語る。

 しかし、彼が律法に対する律法、罪に対する罪、死に対する死となられたのは、彼が私たちを律法の呪いから解き放ち、罪を正し、死を生かすためであった。このようにキリストは、律法であると同時に自由、罪あると同時に義、死であると同時に命である。なぜなら、まさに、彼は、ご自分が律法で裁かれて、罪を罰せられることにより、死を飲み込まれることによって、同時に律法を取り去り、罪を罰し、死を絞め殺して、私たちを正しくし、救ってくださるからである。

 このように、キリストは、律法と罪と死を締め出す贈物であるとともに、信仰者が飲めば、あらゆる不幸から自由になるばかりではなく、心が正しく生かされ、救われる、よく効く薬である。(『慰めと励ましの言葉ーマルティン・ルターによる一日一章』より)

十字架での死を極みとするキリストの苦難は、人の味わう苦難とどこまでもつながろうとする愛であると受け止めてきた。苦難を一緒に担われることが救いとなるというように。けれど「わたしたちのために呪いとなって」(ガラテヤ3:13)ということは、一緒に担うどころか身代わりだ。私に代わって呪われる。それは、わたしたちの誰をも解放してくださるため。ああ。(N)