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· 宗教改革500年,聖書,ルター

マルティン・ルターの言葉(11/5)

ところが最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。

しかし、彼らも1デナリオンずつであった。 (マタイ20:10)

 私たちの誰もが自分の胸の内に大きな「行いによる聖者」をもっていることを知るべきである。つまり、私たちはみな、すばらしい行いをしたいのであり、それを誇って、こう言いたいのである。「見よ、私がそれをしたのだ。今日、私は、私の神に祈りとよい行いによって報いた。それゆえ、私は今、それだけ多く良心の安らぎを得るだろう」。

 私自身もまた、私の職務を待ち、私の使命を熱心に果たしたとき、かつてそれを行うことが出来なかったときより、はるかに愉快になったものである。この喜びは、それ自体悪いものではない。だが、信仰を離れ、純粋なものではなく、良心を捕らえて道を誤らせようとするような喜びである。良心はとても弱いものなので、思い上がりという悪習から十分に身を守ることができない。それゆえ、私たちは自分に頼らないでキリストを告白し、神を畏れながら生きて、信仰を増し加えよう。そして、各々が大きな醜い修道士(行いによる聖者)を自分の心の中にもっていること、つまり、私たちは自分の行いに頼っており、それは信仰にはまったく反することをいつも覚えておこう。

(『慰めと励ましの言葉ーマルティン・ルターによる一日一章』)

心から「お陰様」で歩む。政治家も宗教者も市民も。(N)